100周年記念誌「時代を超えて-Always Reaching Higher-」
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40終戦後ようやく生産を軌道に乗せた当社は、復興に邁まい進する逓信省(後の電電公社、現NTTグループ)や電力会社などインフラ分野のお客様を中心に事業を展開していった。終戦の翌年、当社は電信電話網の復旧と整備を進める逓信省から測定架を受注し、2年間の苦心の後、1948年に最初の出荷にこぎつけた。測定架とは遠距離通信時に中継局と端局の間の通話状態を監視するために、鉄製の架台に可聴周波CR発振器(日本で初めて製品化)1、出力調整盤、レベル測定計などの計測器を搭載した装置である。日本中の中継局からの需要に応え何百台も出荷されるようになり、この時期の当社の主力製品となった。このほかにも電力会社向けの製品の納入が増加するなど、当社は復興への道を確実に歩み始めることができた。1948年には小金井、川越の両工場を売却、同年9月に増資、11月に株式公開(上場登録は1949年5月)を実施し、再び成長に向かう道筋が整った。1949年にはドッジ不況による売上の急激な減少に見舞われつつも、技術向上のための技術懇談会2や能率振興委員会(能振)3を発足させ、1950年には企画室、企画委員会を設けて経営体制の充実に努めた。この間に戦時から続いていた価格統制が終わり、さらに朝鮮特需による企業の投資増もあって、当社の経営は好転した。この時期、後の当社の発展を促すこととなった施策が、当時の友ともた田三みやじ八二常務による米国視察と電子式工業計器開発の決断であった。 日本人の海外渡航が可能となると直ちに、1950年12月、友田常務は3カ月近い米国視察に出発、後に技術提携を行うヒューレット・パッカード社(Hewlett-Packard Co.)、ベンディックス社(Bendix Aviation Corp.)ほか数社を見学、意見交換を行った。これによって当社は最先端の技術に触れ、後の製品開発につながる刺激を受けることとなった。また当社は、朝鮮特需に伴う原材料費急騰に、大胆な品種・仕様の統合や標準品量産化で対処したほか、IBMの計算機導入や小規模生産子会社(デビジョン)による汎用量産品生産(デビジョン制、1953年~)などを実施していくが、これらの先進的な経営手法も、米国視察やこれに基づく交流によるところが大きかった。また、この視察は、当社が進めていた工業計器開発に自信を与えるものともなった。当社では1948年頃、石油・化学工業等の発展で需要増が見込まれる工業計器と、実績のある通信用測定器、航空計器のいずれに力を入れるかで議論が分かれたが、欧米でのオートメーション化の進展などを見据えて工業計器を選んだ。 そして、同分野の先行企業の機械式計器よりも先を行くべく、電子管(真空管)式自動制御装置の開発に着手したのである。再建から復興へ戦後復興から高度成長、オイルショックまで1948 ≫ 1974YOKOGAWA’s History —— Chapter 2広角度計器測定架海外視察とER計器開発の決断1直流電源をもとに、外部からの入力信号なしで、一定振幅・一定周期の振動(パルス)を発生させるのが発振器。CRは C(コンデンサ)とR(抵抗)の略で、CR型は主に低周波用で用いられ、小型化が可能。2研究開発の動向や新製品の知識などを自由に語り合う懇談会。3業務効率化に向けた社員からの改善提案制度。

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